第128回 | 2013.01.22

経済理論だけでは解決しない農業という産業 ~「TPPおばけ騒動と黒幕」を読んで~

山下一仁氏の「TPPおばけ騒動と黒幕」~開国の恐怖を煽った農協の遠謀~というタイトルの本を読んだ。山下先生の本を読むのはこれで3冊目だ。この方は岡山県の笠岡市の出身。東京大学法学部を卒業した後、農林水産省でバリバリのキャリア官僚を経て、現在はキャノングローバル研究所に席を置き、日本農政のアナリストであり経済学者として活躍中である。農政通でありながらTPP推進派の急先鋒で、関税を撤廃しコメの価格自由競争をすべきと主張している。

山下先生の主張は、一貫していてぶれることはない。その主張とは以下のようなものだ。
TPP参加は大賛成で、TPP参加は、日本農業の構造改革に向けた最大、かつ最後のチャンスである。
農家のほとんどを占めるのは、農外所得を得て経済的に豊かな兼業農家であるが、兼業農業を片手間にやっているに過ぎない一方で、やる気と高い生産技術を持つ専業農家が育たない構造になっている。
米価維持のための減反政策、全ての農家に金をばらまく戸別所得補償制度などの悪政のため、兼業農家は土地にしがみついてしまい、これが専業農家への農地集積と専業農家の規模拡大を拒む最大の要因になっている。これまでの保護政策が日本の農業をだめにした。
こうした兼業農家主体の構造が、耕作放棄地を拡大させ、農地が持つ多面的機能を減退させ、食料自給率を低下させている元凶である。
TPPに参加し、米の関税を撤廃して輸入を完全自由化し、減反を廃止すれば、米価は現在の1俵14,000円程度から9,000円程度まで下落し、現在高い米を食べさせられている国民に多大なメリットが発生する。
自由貿易が進展し、米価が安くなれば、国際競争力のある国産米は、戦略的な輸出作物となる。
米価が下落すれば、コスト的に経営が困難な兼業農家は自然に離農することにより、専業農家への集積が進み、専業農家はスケールメリットを活かした低コスト経営が可能になる。
兼業農家には農業を辞めてもらい、全ての農地を専業農家に貸し出す一方で、農地の大家として農地・水路管理の役割を果たすべきだ。
関税撤廃、減反廃止にあたっては、専業農家のみを対象とした所得補償制度を導入して価格差を補填し、TPP参加から関税の完全撤廃までの8年間で、構造改革を進めればよい。
JAグループは、自らの利権確保のために、農政族の政治家やろくでもない学者とつるんで、間違いだらけのことを報道して、TPP参加による恐怖を煽っている。
JAグループがTPPに反対する理由は、TPP参加により構造改革が進み、信用事業など顧客基盤である兼業農家が減ってしまい経営難に陥ってしまうからである。
農政族の政治家がTPPに反対する理由は、票田である兼業農家が減ってしまい、選挙に勝てなくなるからである。
TPPに反対している学者や評論家は、経済学や農政のいろはも分からない素人達で、JAに乗せられて根拠もないデマを飛ばしているに過ぎない。
東大出のキャリア官僚として通商交渉にも携わってきたことから、理論は緻密で実務的である。私は、こんなに頭がいい先生に理論で対応しようとは思わないし、先生の言ういくつかの話には納得できる。しかし全国200か所以上の現場を見て来た私は、やはり先生の主張には違和感を感じる。最大の違和感は、山下先生は、農業を単なる一つの産業としてしか捉えておらず、経済学の視点のみで理論展開しており、農業を支える農村社会の実態をあまりにも無視しすぎるという点だ。先生は、中山間地域等直接支払制度を導入したと言われるが、現場が分かって仕事をされたのかと首をかしげたくなる。

先生は、秋田の八郎潟のような、基盤整備済みの大規模ほ場の水田地帯をイメージされて、ものを言っているのだと思う。あんな農地は、日本にほとんどない。ほ場の1区画の規模は全国平均で1反程度に過ぎず、基盤整備済みの農地は半分以下で、条件が不利な中山間地域の農地も非常に多い。本気で低コスト経営を実現しようと考える専業農家は、基盤整備もなされていない農地など引き受けない。兼業農家から土地を取り上げ専業農家に集約しようとしても、全農地の3分の1程度しか集積は進まないだろう。ゆえにこうした実情を踏まえると、山下氏の主張するようにTPP参加と兼業農家の離農による、専業農家への農地集積を進めても、耕作放棄地は今後も拡大するだろう。しかし、国家の財産である農地を少しでも保全し、食料自給力を確保するためには、小規模農家・兼業農家の存在も必要なのだ。

JAグループの機関紙とも言える日本農業新聞の第1面は、TPP反対のゴシックが連日飾り、正直言うとうんざりである。また、大規模農家のJA離れが進んでいることも事実である。しかしJAは、農村地域にとって必要不可欠な存在だ。農村では、農業を営みながら多くの人が暮らし、JAが核になって農村社会を形成している。そこでは強固なコミュニティが形成されており、このコミュニティが、産地形成だけでなく、地域の生活、福祉、文化、景観形成など、様々な農村機能を維持している。専業農家への優良農地の集約は必要であるが、農村社会は専業農家だけでは維持できない。JAグループはこうした使命をしっかり果たし、地域に愛され信頼される存在になることで、暴言に対し胸を張って立ち向かって欲しい。

地主は専業農家に農地を貸出し、専業農家は農業のみを営み、農地の保全、用排水の管理は農地の貸し手である地主がまかなえばよいと先生は言っているが、これは絵にかいた餅であって、そんな役割分担が成立する訳がない。旧名・農地・水・環境保全対策を導入した目的は、専業農家の大規模化・耕作者の減少に合わせ、農地の保全や用排水の管理者がいなくなることから、自治体など非農家を含めた組織をつくって管理業務を担わせることにある。山下先生は、江ざらいや河川の草刈りなどの作業をしたことがあるだろうか。とても重労働であり、高齢化した地主には体力的にとても出来るものではない。自分で耕作する田んぼであるからこそ、非農家の息子や親族などの力を借りて、水利組合の作業に参加しているのであって、他人に貸した農地の管理など地主はしない。

次に、山下先生は米の国際競争力の向上と、米を輸出作物とすることを主張していることに反論したい。関税撤廃により安い米が輸入され、百歩譲って仮に専業農家への農地集積が達成され、日本の稲作における農業経営の淘汰が進展したとしても、日本の米の輸出は爆発的には拡大しない。関税撤廃となれば、アメリカを始めとした他国は、開発輸入により品質改良と生産技術向上を重ね、スケールメリットを生かした安くて良質な米を生産し、日本市場に挑んでくる。ジャポニカ米を習慣的に食べるのは中国ぐらいしかないが、中国はTPPには参加しないし、共産党の政権下において本格的に自由貿易へ移行するのは、まだ数十年の期間を要するだろう。ゆえに国産米の輸出市場の開拓については、TPPによる恩恵が非常に限定的であると言わざるを得ない。業務用を中心に輸入米は一気に拡大する一方で、国産米の輸出は遅々として進まないだろう。

農地の減反政策や総農家の保護政策だけが、耕作放棄地の拡大を招いた訳ではない。根本的には、日本人の米の消費量が激減し米をつくっても売れなくなったこと、農村部の過疎化が進み担い手の高齢化・減少に歯止めがかからないことが理由だ。農家の土地への執着は強いが、農家の超高齢化と離農者の拡大、担い手農家への集積は黙っていても今後急速に進むだろう。しかしTPP参加による関税撤廃は、日本の農業・農村のトン死を招くことになる。

減反政策と減反に参加した農家のみを戸別所得補償の対象とする現在の制度設計には、私も疑問を感じる。現在の制度では、もっとよい米をつくりたくても40%という減反に協力しなければならない。減反に参加しないと、所得補償がもらえず経営がなりたたない。減反は選択制とし、所得補償は専業農家により厚く行うことで、米で勝負する専業農家や集落営農組織を育成すべきと言うのが私の持論だ。需給バランスのコントロール、一定範囲での米価の維持、補償予算の確保など、大変難しい制度設計になるだろうが、構造改革を段階的に進め、強い農業づくりを進め専業農家が夢を持てるような農政を検討する必要がある。

長期的な視点で見れば、自由貿易の流れは止まらないだろうし、これに対応した構造改革を進める必要がある。しかし、過度で拙速な自由貿易と構造改革は、何百年来の稲作文化によって形成されてきた農村を、そして国体を破壊する。ちなみに私は、TPP交渉には参加すればよいと考えている。交渉に参加した上で、例外品目の承認などについてねばり強い交渉を進め、どうしても国益に反する結果になれるのであれば、交渉から離脱すればよい。

年度末にかけて、いくつかの講演会を予定している。折に触れ、私なりの主張を公の場で述べて行きたい。