第298回 | 2016.10.03

流通研究所のこれまでとこれから①
~コラム終了の挨拶にかえて~

「二の釼が斬る!」は、あと3回、300号を持って筆を置くことにしたい。このコラムを書き続けて丸6年が経つ。このコラムは、全国の農家・農業関係者への応援歌であり、流通研究所の情報発信であり、そして私の頭の整理という3つの目的を持って開始した。これまでの間、全国から様々な反響を頂き、ことのほか読者が多いことに気付かされた。拙いコラムを愛読頂いた方々へ、改めて心より感謝申し上げたい。

終了する理由は、私がコンサルタントとして、経営者として最終ステージを迎えようとしており、年齢的・体力的に残された期間と時間で、自分がなすべき仕事に全力を注ぎたいからだ。すでに100回以上行ってきた講演会も、今年から原則的にはお断りしており、執筆依頼や新たな委員就任依頼なども全てお断りしている。時間がないというより、全ての贅肉をそぎ落としたいと思う気持ちが強い。

コンサルタントとして自分がなすべき仕事とは、地域と寄り添って現場主義の仕事に徹し、地域の人々に心から喜んでもらえるような成果を出すことだ。経営者としての使命は、マーケット創造、人材の確保・育成、財務の健全化を3本柱に、次世代に自信を持って引き継げる会社へと発展させることだ。私はもともと地味な時代遅れの男であり、派手な表舞台に立つことは好まない。若い時は、多少の功名心もあったが、これからの人生は、人々の喜びを直接感じられる距離感で、自分らしく地道な仕事をしていきたいと考える。

さて、残りのコラムに何を書こうかと迷ったが、「流通研究所のこれまでとこれから」の3回シリーズで締めくくることにした。社長である限り、自分の会社が最も大切なことは当たり前だ。しかし流通研究所は私の人生そのものであり、自分の理念・哲学・魂を凝縮した組織であり、このコラムの終了の挨拶として最もふさわしいテーマであると考えた。このテーマに対し、私の自叙伝を交えながら、飾ることなく、出来るだけ正直に、赤裸々に思うところを書いてみたいと思う。

流通研究所は平成4年に設立された会社で、概ね半世紀の歴史を持つ。その中で先代から私が会社を引き継いだのは、今から11年前であり、第2創業という社歴を持つ。引き継いだ訳は、先代が事業の多角化に失敗し、倒産寸前に追い込まれたからだ。その時の債務超過額は膨大で、どう考えても再生の余地はないと私は思った。しかし、私が引き継がなければ会社は間違いなく倒産、全ては無に帰することになる。その際、私に会社を引き継ぐことを決断させたのは、仲間達からの「釼持さんともう一度この会社を立て直したい」という熱いメッセージだった。私もまだ若く、心の底から闘志が燃え上がり、なるようになれとばかりに「よし、一緒にやろう!」という結論を出した。

しかし、それからは人生の地獄が始まった。会社を続けたくても全くお金がない。それまでの取引があった金融機関は手の平を返したように返済を迫り、資金繰りがたちまち行き詰った。私自身はほとんど貯金がない。そこで先ずは妻に、全ての有り金を出してくれとお願いした。誠によく出来た妻で、子供貯金を除くすべての貯金や債権をおろし、相応のお金を用意してくれた。その後は、両親と弟へ懇願し、親戚や親友達を一軒一軒回り続けた。弟と従兄弟がかなりの金額を資本金として出してくれたことに加え、多くの叔父さん叔母さんそして親友達が、それぞれ数百万円単位で貸してくれた。これで何とか当面の倒産の危機から脱することが出来た。

助けてくれたのは皆、私の結婚式に来てくれた人達だった。昔ながらの農家の家系で親族が多く、若い頃は煩わしく思ったこともあったが、このときほど、家族、親兄弟、親族のありがたさを身にしみたことはない。その時の恩は一生忘れないし、この先も支援してくれた全ての方々への信義は欠かさぬつもりだ。

その時残ったスタッフは、私を含め7名だった。この7名で歯をくいしばって再生への道をスタートさせた。この6名は、私にとって部下や従業員という感覚はなく、同じ道を共に歩む同士そのものであった。現在従業員数は大幅に増えたが、従業員を差別する気はないものの、この6名(うち2名は円満退社で転職)に対しては今も特別な思いがある。

また、従兄弟を通して紹介された会計士の先生からの助言・指導には大変助けられた。「釼持さんの会社は社会的な意義がある、とても素晴らしい会社ですよ。必ず再生できます」と力強く背中を押して下さった。その一方、この先生はとても厳しく、恐ろしい方で、「釼持さんの給料(報酬)は、目途がつくまで大幅に減額しない。経営者として腹をくくりなさい」などと叱責された。この期間、私の収入は僅かで妻に食べさせてもらう状態だった。また、先生の助言を受け、会社は有限会社から株式会社へと変更し、事業領域を、官公庁を対象とした地域活性化に絞り込むなど、経営方針を大きく転換した。

皆の頑張りで仕事はそこそこ受注できたが、仕事をやり遂げるための資金が足りない。ご存じのように官公庁の仕事は、業務終了後の一括払いで、翌年の4月、5月にならなければ契約金額の入金はない。そこで、片っぱしから金融機関を回った。毎日毎日、ノンバンクを含めて20行近くを回ったが、手帳には×の記号ばかりが連なった。金融詐欺に騙されそうになり、悔しくて悲しくて涙が止まらなかったこともある。挙句の果てに、私の自宅と土地に加え、親の自宅と土地も担保に入れて何とか金を工面するといった有様だった。

金の苦労はその後何年も続いた。毎年の業績はまずまずだったが、引き継いだ当時の負債が膨大すぎて、僅かな利益でカバーできるような経営状態ではなかった。私が代表になってから約3年間は、相変わらず、いつ倒産してもおかしくないような状況だった。正直言ってとても怖かった。倒産したら、自己破産は免れないし、私を信用して支援して頂いた両親や弟、親族達に詫びる言葉もない。自己破産した時に被害が及ばないよう、妻に協議離婚を持ちかけたこともある。

私はそんな折、自分の際立った長所を見つけることが出来た。それは、どんなに辛くても、怖くても、毎晩ぐっすり眠れるという特技だ。「どうしてもダメなら死ねばよい」、そんな割り切った思いで床につく。そして目が覚めると、新たな闘志を蘇らせることができた。平たく言えば、鈍感で楽天的なのである。スタッフをはじめ、多くの人々に支えられながら、こんな長所が功を奏し、4年目を迎えるころには長いトンネルを抜けることができた。そして6年目には、小さいながらも自社ビルを建設し、流通研究所は危機的状況から成長期へと転換することになる。

私の、人としての、また、経営者としての基本的な哲学や思想は、最初の3年間に培われたと言える。人として、人への感謝の気持ちは忘れるな、信義は怠るな、そして人には常に優しくあれ。経営者として、スタッフとその家族の夢と幸せを保証しろ、情熱と誠意を持って仕事に取り組め、金融機関をはじめ取引先には裏表なく正直に対応しろ。そして、こうした考え方は現在スタッフ全員に浸透し、社風として定着しつある。(第299号に続く)