第99回 | 2012.06.11

原点回帰と新たな挑戦! ~私が愛する郷土・曽比村を思って~

早いもので、「二の釼が斬る!」と命名したこのコラムも、今回で100号という節目を迎えた。これまで2年間、目まぐるしく変化する農業・農村の動向について、全国の生産者と農業関係団体の皆さんへ、私が思ったことを応援歌に代えて綴って来た。さて、この100号で何を書こうか、この1か月あまり考えた。結論として、私が生まれ育ち、今も暮らす、愛する郷土・曽比村のことについて書いてみようと思う。私が農業・農村の専門コンサルタントという特殊な職業を選択し、20年以上もこの仕事に情熱を注ぎこんできた、その原点は、やはり我が郷土にあるからだ。

神奈川県小田原市にある旧曽比村は、小田原の中心市街地から約10km北に位置する田園地帯である。金次郎先生が洪水対策のために植えた松林で有名な、清流・酒匂川の豊かな水利を活かした米どころだ。戦国時代の幕を開けた北条早雲が、当時沼地だったこの地を美田に変えたという史記が残る。また、言わずと知れた私の生涯の師・二宮金次郎先生の生誕地でもある(尊徳記念館は隣の旧栢山村にあるが、生誕地は私の家から西に約300mの曽比村である)。釼持一族は、この村で古い歴史を持つ農家であり、旧家の一つだ。田舎ではよく聞く話であるが、小学生の時は、30名のクラスのうち4~5名は釼持姓だった。本家筋が寺の過去帳を調べたところ、16代目だと言うから、私の先祖は早雲公のもとで開拓に従事した中心人物であったかもしれない。

子供の頃、今の季節になると、早苗植えわたる美しい水田一面に、信じられない程にたくさんの蛍が乱舞していた幻想的な光景を思い出す。その頃は、今のように街路灯など存在しなかったので、夜は村中が闇に包まれる。水田を乱舞する蛍は、満天の星空から、小さな星が無数に降って来たような錯覚に陥る光景だった。農業用水路には、なまずやうなぎ、どじょうなどがたくさんいて、貧しかった我が家の貴重な栄養源となっていた。田植え機やコンバインも普及しておらず、田植や稲狩りは、父も母も総出で、一族の共同作業だった。娯楽も少ない中で、青年団が主催する夏の盆踊りや秋の神社祭りはとても楽しみな行事だった。私はそんな美しく豊かな農村で、泥にまみれて野山を駆け回りながら少年期を送った。

都会暮らしにあこがれ18歳でこの郷土を離れ、長い東京暮らしの後、あげくの果てには青年海外協力隊として地球の裏側まで出稼ぎに行った。ちなみに、青年海外協力隊では、人口2,000人余りの、小さな農村の再生の仕事に携わることになり、全く畑違いの農業の勉強にも励んだ。子どもを連れて32歳でこの村に帰って来た私を迎えたのは、やはり美しい田園風景だった。早苗が植え渡り、きらめく水田に初夏の風が吹いていた。そんな風景を眺めながら一人佇んでいたら、五感が、魂が揺られ、涙がとめどなく流れた。ここは私が心から愛する郷土だ。私にはじめて、そんな気持ちが芽生えた。

あれから歳月が流れ、我が郷土・曽比村も大きく様変わりした。依然地域の約8割は農振農用地であるが、都市化が急速に進み、当時300戸ぐらいの小さな村は、現在1,500戸ほどまでに増えた。農地も100町歩ぐらいに縮小してしまっただろうか。いわゆる生産緑地なるものも、ここかしこで見られるようになった。新住民が増える中で、地域に対する人々の思いも多様化したようだ。

後継者不足で青年団は解散し、盆踊りは廃止、10年前には神社祭りも存亡の危機に立った。なぜ宗教的な行事を住民が支えなければならないのか、そんなに大変なことなど辞めてしまえ、などと言う声が自治会の中で主流になっていった。この地域の五穀豊穣と、人々の幸せを祈り、何百年もの間、先輩達が手を合わせて来た神社を、そんな存在にしか考えない人々が増えてしまっていた。愛する郷土を踏みにじられた思いがした。私を含め有志8名が立ち上がり(私はメンバーの中では最年少)、実行委員会をつくり神社祭りを再生した。仕事が多忙で、毎年9月・10月は準備から後片付けまで、不眠不休であった。

その後有志は30名規模まで拡大し、現在は軌道に乗っている。毎年150名を超える子ども達が、神輿や相撲などの行事に参加してくれる。この地域に住む子供たちが年一回集まり、神社の境内は笑顔と歓声につつまれる。祭囃子の響く中、日も暮れると、村の長老たちが笑顔で酒を酌み交わす。そこには愛する親父の顔も、この地域を築いて来た諸先輩方の笑顔を見ることができる。私はそんな光景を見るのが大好きだ。疲労困憊の中に、真の喜びを感じるひと時である。

私はこの地域に生まれ育ち暮らし、何百年もの間この地域を愛し育んできた人々の血と精神を受け継いでいる。ここに暮らす人々のために、そして美しく豊かな郷土を次世代に引き継ぐために、私はできることを精一杯やろうと思った。これまで、祭の実行委員という永年の役職に加え、保育園の保護者会長、PTA会長、そして自治会では最年少で役員を長年務めた。今は、毎週2時間、リハビリを兼ねて100坪の自家菜園で畑仕事に汗を流している。その際は、燐接する神社に必ず参拝する。ここに暮らす人々に今日もまた幸多かれと。

平成の二宮金次郎になろう。先ずはこの郷土を守り、そして全国の農村を豊かにしよう、日本の農業を元気にしよう。金次郎先生が200年前に抱いた思いを引き継ごう。そんな思いは毎年強くなって来た。その原点に常に立ち返り、地域での活動も、天に与えらたこの仕事も、精一杯取り組んで行きたい。

しかし、遊び人の「さぶちゃん」こと、地域の人気者だった父も老いた。地域を支えてきた諸先輩方も急速に高齢化し、農作業を続けることが困難になりつつある。我が曽比村でも、農地の守り手・農業の担い手は急速に減少している。まだ、それほど耕作放棄地は目立たないが、蛍が乱舞することがなくなってしまったように、この美しく豊かな農村もやがて消えてしまうかもしれない。最近、そんな危機感を持った若手達(60歳代)が中心になり、集落営農的な取組が始まった。私も近い将来、参戦したいと考えている。時代は急速に流れて、社会情勢も人々の心も変化して行く。曽比村でも新たな挑戦が求められているのだと思った。

流通研究所の代表になって丸7年になる。迷い、悩んでばかりの日々が風のように過ぎて行く。未だ、この国のために、何かを成し遂げたという大きな達成感はない。早苗植え渡る初夏の風を吸い込みながら、このコラムを書いた。これからも、たとえその歩みは遅くとも、農業・農村の日本一のコンサルタント、平成の二宮金次郎になろうと思った原点に立ち返り、新たな挑戦に取り組み続けようと心に誓った。